2014年06月26日

「羽生」

歴史的名著だと思う。
再読であることを気づかずに再読して、そうとは知らずに興奮して、どうしてもブログを更新したくなった。
しかしどう考えてもいまの小部屋のテンションではないと思うし、限定公開のSNS内ではちょっともったいない。
しょうがないので、ひっそりとこちらを掘り起こしてみる。

僕はこの数年、本を読むときは必ず折り目をつけて、あとでまとめてその部分を書き留めておくことにしている。
折れれば折れるほどいい本。一か所も折れない本に出合うことはさすがに少ないけど、たまにあると本当にがっかりする。
この本はあまりにも折れたところが多すぎて、書き取りに一時間ぐらいかかってしまった。

ところで「羽生」と言えば同名の文庫本が手元にあった。
その内容はよく覚えていなかったが、手元に残っているということはいい本だ。
ただウェブ上で僕が偶然見かけた紹介は単行本だし、サブタイトルもまるで違うものだった。
発行年もだいぶ古いということもあり、僕は続編だけ読んだのかな、と思ってamazonで古本を取り寄せた。
文庫化するときにちょっとタイトルを変えるのは、もしかしたら僕のような人間をターゲットにしているのかもしれない。なかなか良い戦略だと思う。
僕はほしいと感じた本を買うときには迷わない、深く考えないように決めている。

最後まで読み、さらに1時間ぐらいの書き取りを終え、ところで続編はどんなだったのかな、となんとなく手に取って、ページをめくって唖然。
読んだとき、興奮したのをその瞬間にはっきりと思い出した。その瞬間までは、なんとなく読んだかもしれないな、とは思ったが、それが目の前にあるとは思わなかった。人間の脳というのは不思議なものだ。まあ、それは単に僕が頭が悪いだけなのかもしれないが。
まえがきの「黙殺」という一フレーズを読んで、ああ、と検索してみたらすぐに見つかった。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070622/p1

あのとき興奮した僕は、いままた、同じかそれ以上に、興奮している。
もし一度読んだことを覚えていたらわざわざ全部を読み返すには至らなかっただろうから、自分の記憶力の悪さ、不可思議さに感謝するほかない。
一度目のときにも折り目はある。ただ、いまと違って書き留めたりは、していなかったかもしれない。
二度目と比べてみると、同じところに反応していることもあるし、意外なところもある。まあ、そういうもんだろうか。

本当にすごい本なので、将棋か羽生さんのいずれかを知っている人には、ぜひ一読をオススメしたい。
ちなみに、サブタイトルは元々のほうが良いと思う。この本は思考法ではなく、未来を暗示する内容なので。
posted by daichan at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月03日

将棋の「奥」について

 最近プロ将棋の「型」というものが、いままで以上になくなってきていることを強く感じる。そしてそれは、より本質的な意味において、将棋というゲームの原理に近づいているのではないかと思えてならない。

 「どうぶつしょうぎ」のヒットは、より少ない枚数・より弱い種類の駒たちによっても、(本)将棋に近いゲームになりうる可能性を示唆した。その奥行きが最終的にどの程度あるかは今後の研究を待つとしても、少なくともいまの自分には、具体的な解は得られていない。あの狭い空間でそれだけの奥があることには驚く。
 どうぶつしょうぎにはまだ定跡のようなものは整備されていないはずだから、頼りになるのは自分の「読み」だけである。見たこともない局面を前に、「こう行く、こう来る」という読みを繰り返していくしかない。しかるに普通の将棋だとどうなのだろう。

 将棋は長い歴史の中で、たくさんのセオリーが整備されてきた。その多くは「戦法」となり「定跡」にもなりあるいは「格言」になった。その結果序盤から終盤に至るまで、そのすべての可能性を探るのではなく、ある種の「法則」に基づいて指し手を決定できるようになった。将棋の進歩の歴史はそのまま、そうした勝つための「法則」を探り当てる歴史だったとも言えるだろう。
 そうして完成した法則は数多く、いまやプロでもすべてを網羅するのは大変なほど。だからいままでは、それをしっかりおさえていれば十分勝てたのではなかろうか。ところが最近の将棋には、まるで法則の裏をかくというか、あえていままでの法則の「例外」を探しているかのような将棋が多いと感じる。
 どういうときにそのような「例外」になるのか、「例外の法則」を探す段階に入ってきているように思われるのである。そのための試行錯誤、思考実験を、おそらくはほとんどのトップ棋士が始めている。表には必ずしも出ていなくとも、私はそう確信している。

 そもそも将棋のすべての局面は、原理的にはわずか3通りにしか分類されないはずである。すなわち、「勝ち」「負け」「引き分け」のどれか。私がなぜどうぶつしょうぎを引き合いに出したかと言えば、プロ棋士はあのゲームを前にしたら例外なく、解がその3通りのうちのどれなのかを出そうとするからである。そしてその意外な奥を知って驚くことになる。
 ではなぜ、実際の将棋ではそこまでしないのだろう?それはすでに、そうそう読み切れるものではないほど奥が深いことを、肌身に染みて理解しているからに他ならない。だから法則を探ることで、すこしでも有利に戦いを進めることに腐心してきた。

 しかしおそらく、法則探しの旅にはある程度「ケリがついた」。そしてこれからは例外探しの旅が始まる。否、もう始まっている。
 例外を掘り当てるのに必要なものは、たぶんすこしの勇気と、直観と、そして大量の読み。見たこともない局面において頼れるのは読みしかないから。そして将棋というのは原理的には、解にたどりつけるはずのものだから。たぶんこれからは「いくら時間があっても足りない」ような局面を前にする機会がどんどん増えることだろう。

 などということをつらつらと考えた。思考はこの先、将棋というゲームそのものの未来に向かうのだが、そこまで行くとそれこそ、時間がいくらあっても足りない。
 ただこの400年間所与のものと思われてきた初期配置や盤面なんかも、見直される可能性もあるのかもしれないと思う。原理的にはどんな配置の局面でも最善手の追究は可能だし、実際チェスはコンピュータに負けたあとそういう方向に進んだわけだから。その先の世界が居心地の良いものであればいいなと思う。
posted by daichan at 12:23| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月12日

たまには政治の話でも

給付金だそうですね。まわりに話して発散したりはしているのだけれども、どうにも怒りがおさまらないので書いてしまうことにした。せっかくブログ二つも持ってることだし。
まさか昔の怒りをもう一度思い出さされるとは思わなんだですよ。当時僕はまだ子どもだった記憶があったけど、調べてみるとさほど子どもでもなかったんですね。弟はもらえて僕はもらえない年だったみたいです。へー。そんな理由で怒ったとは思えないけど。

減税ならまだいいですよ。公共事業でも何でも、まあいいでしょう(ちなみに僕は消費税上げろ派ですが)。でもこれだけはダメですよ。だって集めたものをそのまま戻したら、手数料分だけ損してしまいます。一人二人ならたいした額じゃなくても、何千万人相手の手間というのはバカにならない金額ですよ。預かったら返すまでの間に運用しないと、銀行というのはつぶれてしまうんですよ。

と思ってたら本質を突いたブログ記事を見つけたので、僕も書いてしまおうと思った次第。

>そもそも、税金を広く市民から集めるのは、ある程度まとまったお金でしか出来ないことをやるためではないでしょうか?せっかくあつめた、それを広く市民に配るってのは、どう考えてもおかしいです。

というのがそのまま僕の言いたいことです。メディアの側も、辞退してもらう方式は良くないとか何とか、そういう話の前にこのぐらいの考察は加えて報道すべきではなかろうか。

僕は堀江さんは特に好きではないのですが(かと言って捕まるような悪いこともしてないと思いますが)、ブログを読んでいて頭の良い人なんだなということは分かります。この記事ひとつ取ってもそうですが、こんな大悪手をリカバリーして好手に変えられないかという発想がすごい。将棋指しも見習ったほうが良いかもしれない?

この案の良しあしは僕には分かりませんが、まあどうせそんなふざけたカネなら乗ってみたいものです。


ところで、僕が政治に最も望むことを一つあげるなら「借金を返してほしい」ということであり、そのための方策の一つとして関心が高いものが「一票の格差」というものです。

国の借金と一票の格差がどう結びつくのか?直接書かれているわけではないのですが、この本を読んだときにふと気づいたんですね。ああ、だからいつまでたっても借金が返せないんだと。

簡単に言うと
過疎地の票が強い=高齢者の票が強い⇒高齢者に喜ばれる政策のほうが実現しやすい⇒借金が返せない
ということです。地域間格差が5倍というのも深刻ですが、仮に世代間格差が同じだけあるとしたら相当深刻だと思いますよ。おまけに若年層は減っているわけだから、早く是正しないと格差は広がる一方です。

過疎地の票が強いことで、過疎地向けの政策が実現されるとすれば、それはこの狭い国土を支える上で大切なことのような気がしていました。しかし実際には特定の地域の声が国政に反映されるかとなると難しいところです。
対して、特定の世代の声というのは比較的反映されやすいものです。高齢者医療制度の迷走が良い例ではないでしょうか(ちょっと例が適切ではないかな?)

仮に世代間における一票の格差が是正されれば、その分だけいまより借金を返すモチベーションは高まるだろうというのが仮説です。そもそも僕の頭では、何百兆円も金を借りている状態で、さらに金を使おうという神経がわからない。細かい理屈は抜きにして、同じ感覚の人って世の中にたくさんいると思うんですけど、どうなんですかね。

一票の格差の裁判って大昔からずっとやっていて、毎年のように同じような判決が出ることが子どもの頃から不思議でした。そもそも裁判費用だってけっこうかかってるはずですし、さっさと是正したらいいと思うんですけどね。

上の本では最高裁への期待が投げかけられていますが、僕はこの国の制度上不作為の違憲判決を出すのはかなり難しいのではと考えている人間なので、大都市圏選出の議員さんに頑張ってほしいですね。そういう人がいたらもれなく応援するんだけどなあ。


と、あれこれ書いてだいぶ怒りもおさまってきたのでこのへんで。最後に余談ふたつ。

・本のタイトルの検索でアマゾンのページより上位にくる池田信夫ブログはすごい。
・このページのように写真でリンクを貼る方法を教えてください。特にシーサー仲間の方。
posted by daichan at 15:40| Comment(16) | TrackBack(0) | 意見・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月30日

wisdom of crowdsへの実験

突然ですが、将棋界には英語での情報発信が非常に不足しているという声はよく聞きます。先日本間六段が文化交流使としての任務を終えて帰国されましたが、将棋の海外普及において、圧倒的に高い壁となっているのは言語の壁だと思われます。(他には、道具や指導者の問題などももちろんありますが)

このハードルを越えるには、棋士が英文(や他の言語)で情報発信をしていくのが一番手っ取り早いとは思うのですが、できる人は限られていて、残念ながら僕には全くできません。そこで、表題のようなことを考えたわけです。

ブログを書くようになってだいぶ経ちますので、その中には将棋普及に有益な内容も多少はあるかと思います。また、特に役に立たない情報であっても、棋士が定期的に発信しているということはそれなりに意味のあることだと思っています。もちろんただ楽しいからやっている側面が強いわけですが、特に地方や海外など、普段棋士に接することの少ない人たちには良い機会にもなりうるのでは、という思いも多少はあります。

ということで、世の中の皆さんに、このブログや、ほかに僕が書いたもの(すこしづつここにまとめていこうと思っています)を翻訳してアップしていってもらうことはできないでしょうか?ということを考えました。
もしもこういうことが可能になれば、一人の棋士が海外向けのメディアを一つ持ったことになります。これはおそらく、非常に大きなことです。

そして当然ながら、僕の書いたものよりも、はるかに海外の将棋ファンにとって有益な情報というのはたくさんあります。そうしたものは、いまはごく一部の人たちの手で、細々と翻訳作業が行われていると聞いたことがあります。機運が高まれば、そうしたことも、加速度的に進む可能性もあります。


「wisdom of crowds(群衆の叡智)」という言葉の正しい使い方とは若干違うかもしれませんが、世の中の人たちの知恵を借りて将棋普及を進めることはできないものか、というのが意図するところです。あくまでも実験ですので、うまくいくかどうかは自分でもよくわかりません。

しかもこのプロジェクト(?)はまだ僕の頭の中で構想されたばかりなので、ほとんど何も始まっていません。始まらないかもしれません。とりあえずその状況でもここに投げておいて、意見を聞いてみよう、というのが僕のウェブに対するスタンスです。
ということで
・そもそもそんなこと可能だろうか?
・可能だとすれば、どんな方法があるだろうか?
・可能になったとして、果たして意味のあることだろうか?
・そういうことなら、協力してもいいですよ。
・他の世界では、こういう似たような事例がありますよ。
このあたりについて、ご意見をいただけると幸いです。よろしくお願いします。
posted by daichan at 10:58| Comment(34) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月15日

印象に残る言葉

「ウェブ時代 5つの定理」
面白かったです。なんつーか、底抜けにのーてんきになれる本ですね(笑)
最近は何かとつい将棋に結びつけてしまうもので、印象に残る言葉が出てくると、将棋界ではどうだろうか?と考えてしまいます。

一番印象的だったのはこれ。
Aクラスの人は、Aクラスの人と一緒に仕事をしたがる。
Bクラスの人は、Cクラスの人を採用したがる。

なかなかAクラスに勝てなくてイヤになりかけていますが、対戦できることをいつも以上に感謝しなくてはいけませんね。


さて、以下パロディ。軽いノリで楽しんでください。

・失敗といっても将棋で負けるぐらいのこと(p52)
盤上ではいつも、そのぐらいの気持ちで積極的に生きたいものです。

・将棋を大きく変えるイノベーションは、10%良くなったとか20%良くなったというレベルではダメ。「将棋観が変わった」と感じられるような斬新さがなくてはならない。(p147)
実際にやるのは難しいことですが。


・私たちは非常に複雑な将棋を、その将棋がどれほど複雑かを人々に知らせることなく、分かってもらおうと試みている。(p166)
というのが解説者の役割であるはずです。


・いま、将棋はまったく違う。それは、私たち一人ひとりがどんな将棋についても「情報を得る力」を持ったからだ。棋士が内弟子をしていた頃と、本当にまったく違う世界だ。(p182)
その実感が「高速道路」という言葉に結びついているんでしょうね。


・私は「普通の棋士」ではありません。そしてそうなろうとも思っていない。(p186)

・でも、コンピュータが大成功したから「将棋は分かった」なんて、それは歴史を否定することだ。(p245)
と、10年後もそう言い切れるプロでありたいものです。



自分がやらない限り世に起こらないことを私はやる。(p259)
実は最後だけパロディじゃないですね。てことでこれからもがんばります。
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2008年03月06日

テレビ予選について

今週の週刊将棋の連載中に書かせてもらったことについて、簡単に補足しておきます。

一言でいうと、毎年2月末に行われるNHK予選や、夏に行われる銀河戦予選は、「放映するわけではないので、結果などはすぐ公表すべきではないか」ということを書きました。正直なところ、特に異論が出るとは思えないんですが、いまのところそうなっていません。

先日ある先輩棋士に、「予選を指していることが分かると、その棋士が本戦ベスト4に進出していないことがわかってしまい、困るケースがある」という指摘を受けました。(本戦ベスト4は来期本戦シードになる)
これについて反論の余地は全くなく、対局時期をずらして対応するぐらいしか方法はないと思います。

ですがこれは原則と例外の逆転だと、この話を聞いたとき思いました。例外的に困るケースがあるからと言って、すべてを非公開にする理由になるとは思えません。やはり、対局結果は原則公開にしたほうが良いと私は思います。

昨年のいまごろに棋士会でも提案したのですが、残念ながら今年も見送られました。まあたいしたことではないと言ってしまえばそれまでなんですが、プロの世界なんですから、可能な限り情報は出すべきだと思うんですよね。


この話と直接には関係ないですが、すこし前にこういうエントリがありました。そう言えばこの人紹介するの久しぶりですね。

正直言って自分が対局してたらイヤですが(笑)、あの光景はたしかに商品価値があるような気がします。
いままで光の当たらなかった対局にもファンの目が向くのであれば、どんどん新しい試みはやっていくべきだと思いますね。
posted by daichan at 14:50| Comment(5) | TrackBack(1) | 意見・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月17日

ブログパーツ

というものがあるそうですね。一年以上もブログやってて初めて知りました(笑)

ということでいつもお世話になっている順位戦中継のページから、宣伝もかねていただいてきました。これで中継の日程をチェックしてくださいね。


小部屋のほうでもやろうと思ったのですが、なぜかこちらでは難しいみたいです。どうもgooとseesaaの違いみたいですね。ブログによってもできることとできないことがあるようで、正直僕にはよくわかりません(苦笑)


こっちはあんまり更新してませんが、一応こうやって気にはかけてます、というお知らせでした。なぜかこれでも一日200人ぐらいは見にきてくれているみたいで、どうもありがとうございます。
posted by daichan at 18:25| Comment(2) | TrackBack(1) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月31日

振り返る。2

小部屋に続いてこちらも、一通り読み返してみました。なんとなく、これで無事年が越せるという気分です。


はじめのほうで書いている通り、こちらがメインページのつもりでした。自分自身の分析としては、すこし肩に力が入っている感じはしますが、おおむねよく書けているなという印象でした。何年かするとまた変わるかもしれませんが、いまの自分から見てもうなづける内容が多いです。

女流観戦記テレビコンピュータと、opinionに取り上げた内容はそのまま僕自身の関心を素直に表しています。興味のある方はそれぞれのリンク先を読んでみてください。
そしてこのエントリは、このブログ前半の集大成と言って良いような内容になっている気がします。ここに書いたことは、きっとまた何年か先に思い出すのだろうと思います。


後半は急に更新が途絶えてしまいましたが、これは他のところでも書いた通り、決して意見がなくなったわけではありません。ただ、始めた頃のような強い言葉で一つのエントリにまとめるという、モチベーションが下がったことが原因です。今後どういう形で発信していくのかは分かりませんが、こちらのブログも続けていきたいとは思っています。

きっかけは何だったのか、たぶん6月頃本の執筆がピークに差し掛かっていたのが大きかったのではないかと思います。その後はいろいろと紹介する機会が増えたりとか、日常のことを書くのが楽しくなってきたりとか、そういったことが原因だった気がします。

来年どういうスタンスでいくか分かりませんが、とりあえずは当初の月1回程度の更新が目標です。来年もよろしくお願いします。
posted by daichan at 17:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

ウェブ時代を行く

移動中に読み終わりました。評論というか、もうちょっと踏み込んで言うならば啓蒙というか、とにかくそういう類のことをするには、こんなにも繰り返さないといけないのだなあ、というのが感想です。たぶんこういう観点の人は珍しいのではないかなと予想。我々のように、もともと好き勝手やってる人間には(笑)、当然にうなづける感じの内容になってる感じがします。迷っている人、勇気づけられたい人におすすめ、ってとこですかね。

ところどころすごくデジャブ感があったのは、ご自身がブログで普段書かれていることと、同じことがたくさん出てくるからでしょうね。ここ数年のスタンスのようなものが、それだけはっきりしてるということなんでしょう。こういう人って変わり続けるタイプの人が多い(と思う)ので、何年かするとまた別のスタイルのものが読めるようになるかもしれません。ならないかもしれませんが。

昨日読んだ対談なんかも、いつも通りのスタンスですね。

本の最後のほうに「ウェブ・リテラシーを持つことのすすめ」が出てくるのですが、これを読んで自分があまりそうした分野に得意でないし、あまり興味も深くないことを、期せずして再認識してしまいました。まあ分かってたことではあるのですが。それでもウェブは面白いです。こんな自分でも全世界に向けて日々発信してるわけですから、たしかに可能性無限大な世界ですよね。得意でないと知りつつも、楽しめる範囲でこれからも大いにつきあっていくことになるんでしょう。


あと、移動中週刊将棋を読んでいたら、ちょうどこの本を読んだ直後だったもので、鈴木環那さんはまさに「けものみち」を行こうとしている人なのかなあ、とふと思いました。的はずれでしたらすみません。それと、ファニー君ちょっとほめられすぎだろ(笑)

最近こんな感じの更新ばかりなもので、「書評」というカテゴリを追加してみました(笑)
posted by daichan at 18:24| Comment(0) | TrackBack(2) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月10日

頭脳勝負

先日すこし触れた、渡辺竜王の新書をちょっとご紹介。

すでにいくつかのブログでも評判になっている通り、いままでになかった将棋の本であり、非常に良い出来に仕上がっています。特に棋力のそれほど高くない方に、あるいは(将棋は指すけど)将棋界のことをよく知らない方に、ぜひおすすめしたい一冊です。

読んでみてまず「対局しているときに棋士が考えていること(指し手の部分も含めて)」を伝えるのに腐心しているな、という印象を受けました。これは強い人ほどかえって難しい分野であり、僕自身も常々やってみたいと考えていることです。だから僕が言葉にしたかった内容もたくさん含まれていて、ちょっと残念な気持ちもありました。でもタイトル戦の描写などは彼でなくては書けない内容ばかりなので、やっぱり僕には無理ですね。

うまく自分の好きなスポーツにたとえていたりとか、話の持って行き方がうまいのにも感心しました。将棋の話は、他の世界の話に置き換えるとわかりやすくなる、というのは僕もよく意識しているところです。ブログなどでもそういう書き方はあまりしたことがなかったはずなのに、たいしたものですね。
パソコンの前で数時間考え込んでしまうこともありました
と言うだけあって、苦労のあとがうかがえます。


相変わらずというか、思い切った発言もたくさんしているのは興味深いところです。以前から言われているようなことであっても、並の棋士が言うのと竜王が言うのでは意味合いが違います。特に順位戦に関する話のくだりは、(内容的にはむちゃくちゃ真っ当なんですが)よくここまで書いたなあ、と思いました。

ということで引用しておきます。
様々な意見が出ているのに具体的な議論に至らないのは、「どんな制度でも勝つ人は勝つんだから、細かいことを決めるのは見苦しい」という「棋士感覚」が根底にあるからかもしれません。確かに、何もかもきちっと決めてしまうのは面白くないかもしれませんし、順位戦制度は長年続いてきている伝統あるものですが、そろそろ少しは改善しても良いのではないかと感じています。

たしかに、そういう棋士感覚はいたるところに顔を覗かせています。制度の問題とは本来何の関係もないはずなんですけどね。
まあそれはさておくとしても第一人者がここまではっきり書いていて、ほうっておくわけにはいかないのでは?とは思います。


他では「スポーツを観るように将棋も」という項は非常に印象に残りました。ほかに「無責任に」という表現も出てきますが、ようは「分かった気になって」「勝手な視点で」楽しんでほしい、というところでしょうか。まったくその通りですね。

僕はその中で常々「技術の普及」をしたいと思っているので、そんな人たちの理解をちょっと手助けしてあげられたらな、ということは思います。でも、分からないけど観る人、分かった気になって観る人、分かろうとして観る人、いろんな人がいていいですよね。

まあそういうわけで、ぜひご一読ください。


最近棋士の新書が増えている、とある人に言われました。たしかにそうですね。将棋そのものでなく、将棋界とか、棋士とか、そういったところに注目が集まっている証拠ではないかと思います。そうした流れに自分も寄与したい、と思って日々いろんなことを考えたり書いたりしています。
posted by daichan at 21:56| Comment(5) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする