2007年01月07日

観戦記について―引用ふたつ

まとめに変えて、今回のきっかけとなった梅田望夫さんのブログから、二つ引用しておきます。

(前略)分量の多さというのはとても大切な要素なのだ。将棋がそんなに強くない人でも、このくらいの字数をかけて丁寧に手の意味を解説してもらえれば、ちゃんと将棋の魅力、楽しさというのは伝達可能なのである。

 これは主に、純粋に指し手の解説のことを指しているものと解釈しました。かいつまんで説明すればするほど、棋力の低い人にもちゃんと伝わる、ということなのだと思います。
 それはその通りだと思いますが、僕自身は、観戦記の面白さそのものと、分量の多さというのは必ずしも関係ない、少なくとも比例するものではないと考えています。極端な話、指し手の解説が一切なくても、力のある書き手ならば「読ませる」ものを書けると信じています。それはもはや「その将棋の観戦記」という枠を超えて、その書き手による一つの「作品」のようなものなのかもしれませんが、それはそれで一つのあり方ではないかと思います。

 将棋ファンを分ける一つの要素として、「指し手の詳しい解説を望む層」と「そうでない層」というものがあると思います。他に「棋力」(高い・低い)「見るor指す」などいくつかの要素があるでしょうが、この要素は中でも最も厄介なものだと思います。「あちらを立てればこちらが立たず」という状態になりやすいからです。余談ですが、これは特に大盤解説会で悩まされる点だと思います。
 ブログを読む限り、梅田さんは「指し手の詳しい解説を望む層」であろうと想像します。そして、現在の新聞の観戦記欄では、そちら側の層を満足させるのは、なかなか難しいだろうということが分かります。「初段くらい」というのは将棋ファン全体の中では、決して低い棋力ではないのですから。とすれば、新聞観戦記は、主に「そうでない層」の方へのアプローチを念頭に置くべきなのかもしれません。もし読者層として「新聞の読者一般」を念頭に置くならば、それは理にかなったことと言えるでしょう。


 そういう長文の枠さえ用意すれば、若い棋士の中からも素晴らしい観戦記を書く人材も育つだろうし、「将棋の魅力」はより広く伝達されていくことだろう。この「長い観戦記」を土台に、その周囲に「Wisdom of Crowds」(群集の叡智)を集めることだってネット上なら可能である。

 これは実現の難しさはともかくとして、大筋においては大賛成です。多様な見解、多様な情報が発信されることで、内容の向上が期待できるというのがその理由の一つです。特に「人材が育つ」という点は見逃せないと思います。現状においてはそうした土壌は極めて少ないと思います。
 また、「スペースに制限がない」ことから、多様な層への別々のアプローチが可能になる、ということも期待できそうです。簡単な例を挙げると、初級者向け・中級者向け・上級者向け・・と棋力に応じた解説が可能になるかもしれない、ということです。そうすればより多くのファン層に、その将棋について理解してもらうことができます。もちろんその分労力もかかるわけですが。

 ネットの話になるとどうしても飛躍してしまいがちです。自分があまり詳しくないことと、それでいてその無限にも思える可能性にワクワクしてしまうせいでしょうか。

 梅田さんがコメントを寄せて下さった通り、観戦記は「外の世界との唯一の接点」ですから、ファンの方には読んでほしいのはもちろん、積極的に提言してほしいと思っています。「こういうふうにしてほしい」という一つ一つの要望・提案が、大きな力になるのではないかと思っています。
 最近こんなブログを見つけました(と言うか、トラバしていただいたんですが)
 どういう方かは存じませんが、この観戦記に関する部分は、非常にうなづかされるものでした。これからの時代の「読者の声」と言うのは、こういうふうにネット上からも拾っていかないといけないのかもしれませんね。
posted by daichan at 00:37| Comment(3) | TrackBack(1) | 意見・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月02日

観戦記について@

 いろいろ書きたいことが多くて、まとめるのに時間がかかってしまいました。Aがいつの機会になるかは分かりませんが、今回は「即時性」というテーマに絞って、書いてみたいと思います。

 将棋界をこれまで支えてきたもの。その柱の一つが、新聞社というスポンサーであり、それぞれの新聞に掲載されてきた観戦記であろうと思う。新聞に将棋が掲載されることで、棋士たちはお金を得て、同時に将棋の普及にも役立ってきた。その観戦記が「インターネット」という新たなメディアの出現で変わろうとしている。また、変わっていくべきだと思う。

 かつて新聞の観戦記というのは「即時性」を備えたものだったのではないかと想像する。昔のことはわからないのであくまでも推測だが、かつては新聞が将棋の詳しい内容を知るための、最速にしてほとんど唯一の手段であり続けたのではないだろうか。「将棋雑誌があるじゃないか」と言うなら、新聞を「出版物」と読み替えてもらってもよい。その状況がいま、インターネットの出現により、大きく変化している。

 たとえば、いま渡辺竜王の将棋について詳しく知りたければ、見るべきものは週刊将棋でも将棋世界でもなく、渡辺明ブログであることは広く知られていると思う。本人の記事が最も信頼できる上に最も早いと来ている。この現実は実際に取材して記事を書く人にとっては厳しいが、その現実を乗り越えて、それでも読みたいと思わせるだけの物を書かないと読者はついてこない。一言で言うと、書き手のその人なりの個性を出していくしか方法はないと思う。
 新聞の観戦記も同じことで、結果も、場合によっては内容もネット上で見ることのできる対局について、後発で類似の記事を出しても読者は評価してくれないだろう。満足させるには内容を良くするしかない。何が言いたいかというと、「即時性を自然と備えていた時代と同じやり方をしていてはだめだ」ということである。

 現在の新聞観戦記というのは、だいたい対局から1ヶ月後ぐらいに掲載されるものが多いが、中には数日中に掲載されるものや、逆に3ヶ月ぐらいたってから掲載されるものもある。読者は一般に、掲載は早いほうがいいと思われるかもしれない。たとえば、遅くなるとこんな指摘もある→対局時期と掲載時期がかけ離れている物が結構多いので、掲載時期を忘れてしまうという事が多いのです。

 しかし僕は必ずしも掲載時期が遅いことが悪いとは思わない。問題は、すべてが同じような取材方法、同じような書かれ方をされていることだと思う。即日まとめなければいけないもの、数日中のもの、数ヶ月後のもの、そのすべてが同じ情報、同じ取材(その大半は感想戦)に基づくもので果たして良いだろうか?僕はそうは思わない。

 時間がたつことで、対局者本人がその将棋に対する理解を深めることもあるし、注目のカードであれば多くの棋士が目を通すわけだから、棋士仲間のその将棋に対する評価も自然と定まってくるだろう。同じような将棋が流行するきっかけになることもあれば、逆に指されなくなることもある。わかりやすい例を挙げると、「最新流行形」とネット中継に書いてあるならいいが、これを数ヶ月過ぎた観戦記で使うのは無理がある場合が多いだろうと思う。
 対局中にはこのように考えてこう指した→感想戦で調べてみたところこう指すべきだと判明した→しかし改めて冷静になって一人で考えてみるとやっぱり納得がいかない、なんてことはざらにある。そうした心理の動きが書かれているものはなかなかお目にかかれない。僕が一番嫌いなのは「▲○○○では▲○○○が良かった」(感想戦の結論)の繰り返しである。報道記事としてはもちろんその事実も大切かもしれないが、事実であるという以上の価値(面白さ・将棋の魅力)は生まないと思うから。

 大雑把に言って、即時性が必要なものは、対局前・対局中そして対局直後に得られる情報に片寄らざるを得ないだろう。ネット中継というのはだいたいがそうだと思う。ならば、時間のたってから出る文章には、その逆、つまり時がたってからでなくては得られない情報が盛り込まれてしかるべきだと思う。そしてその上で、その書き手でなくては書けない「味」が出てくるのが理想だろうと思う。


 最後に改めて、この稿で一番言いたかったことは「即時性を自然と備えていた時代と同じやり方をしていてはだめだ」これに尽きます。その点がしっかり伝わっていればと願います。
 これまで観戦記の世界は、外部との接点でありながら、将棋界の中でも特に閉鎖的だったのではないか、と僕は感じています。それをすこしづつでも変えていくきっかけになれば、と思っています。
posted by daichan at 00:27| Comment(7) | TrackBack(3) | 意見・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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