(前略)分量の多さというのはとても大切な要素なのだ。将棋がそんなに強くない人でも、このくらいの字数をかけて丁寧に手の意味を解説してもらえれば、ちゃんと将棋の魅力、楽しさというのは伝達可能なのである。
これは主に、純粋に指し手の解説のことを指しているものと解釈しました。かいつまんで説明すればするほど、棋力の低い人にもちゃんと伝わる、ということなのだと思います。
それはその通りだと思いますが、僕自身は、観戦記の面白さそのものと、分量の多さというのは必ずしも関係ない、少なくとも比例するものではないと考えています。極端な話、指し手の解説が一切なくても、力のある書き手ならば「読ませる」ものを書けると信じています。それはもはや「その将棋の観戦記」という枠を超えて、その書き手による一つの「作品」のようなものなのかもしれませんが、それはそれで一つのあり方ではないかと思います。
将棋ファンを分ける一つの要素として、「指し手の詳しい解説を望む層」と「そうでない層」というものがあると思います。他に「棋力」(高い・低い)「見るor指す」などいくつかの要素があるでしょうが、この要素は中でも最も厄介なものだと思います。「あちらを立てればこちらが立たず」という状態になりやすいからです。余談ですが、これは特に大盤解説会で悩まされる点だと思います。
ブログを読む限り、梅田さんは「指し手の詳しい解説を望む層」であろうと想像します。そして、現在の新聞の観戦記欄では、そちら側の層を満足させるのは、なかなか難しいだろうということが分かります。「初段くらい」というのは将棋ファン全体の中では、決して低い棋力ではないのですから。とすれば、新聞観戦記は、主に「そうでない層」の方へのアプローチを念頭に置くべきなのかもしれません。もし読者層として「新聞の読者一般」を念頭に置くならば、それは理にかなったことと言えるでしょう。
そういう長文の枠さえ用意すれば、若い棋士の中からも素晴らしい観戦記を書く人材も育つだろうし、「将棋の魅力」はより広く伝達されていくことだろう。この「長い観戦記」を土台に、その周囲に「Wisdom of Crowds」(群集の叡智)を集めることだってネット上なら可能である。
これは実現の難しさはともかくとして、大筋においては大賛成です。多様な見解、多様な情報が発信されることで、内容の向上が期待できるというのがその理由の一つです。特に「人材が育つ」という点は見逃せないと思います。現状においてはそうした土壌は極めて少ないと思います。
また、「スペースに制限がない」ことから、多様な層への別々のアプローチが可能になる、ということも期待できそうです。簡単な例を挙げると、初級者向け・中級者向け・上級者向け・・と棋力に応じた解説が可能になるかもしれない、ということです。そうすればより多くのファン層に、その将棋について理解してもらうことができます。もちろんその分労力もかかるわけですが。
ネットの話になるとどうしても飛躍してしまいがちです。自分があまり詳しくないことと、それでいてその無限にも思える可能性にワクワクしてしまうせいでしょうか。
梅田さんがコメントを寄せて下さった通り、観戦記は「外の世界との唯一の接点」ですから、ファンの方には読んでほしいのはもちろん、積極的に提言してほしいと思っています。「こういうふうにしてほしい」という一つ一つの要望・提案が、大きな力になるのではないかと思っています。
最近こんなブログを見つけました(と言うか、トラバしていただいたんですが)
どういう方かは存じませんが、この観戦記に関する部分は、非常にうなづかされるものでした。これからの時代の「読者の声」と言うのは、こういうふうにネット上からも拾っていかないといけないのかもしれませんね。