正直なところ僕の最近の関心は、自分の昇級と女流棋士の問題がほとんどで、このイベントのことはすっかり忘れていた。世間の関心を集めるのも、いますこし先のことだと思っていた。しかしいざ将棋を見て、いま書いておかないと機会を逸すると思ったので、たいした知識もないのにこうして取り急ぎ書いている次第。今回はプロ棋士の視点ではあるものの、一方では全くの素人の見解でもあるということを念頭に置いて読んでほしい。
僕が奨励会初段前後の、中学生の頃のことだったと思うが、チェスの世界チャンピオン・カスパロフがディープ・ブルーというコンピュータに負けた。僕にとっては遠い海の向こうの出来事でしかなかったが、おそらくチェスの世界にとっては大きな衝撃だっただろうと思う。その後人間とコンピュータの戦いが報じられた記憶はないが、この一事をもってコンピュータがチェスの世界で人間を凌駕したというのはいささか疑問ではある。(理由はのちほど)
ただ、いまは当時と比べるとハードの性能が格段に進歩しているから、おそらく世界チャンピオンよりもコンピュータのほうが強いのだろうと、勝手に想像している。実際のところどの程度の差があるのかは、プロ棋士としては若干興味のあるところである。
さて、その頃何かで読んだ文章で、このようなものがあった。
「コンピュータというのはおしなべて、人間が予想するよりも早く、目標に到達するものだ」
古い記憶なので不正確かもしれないが、だいたいこんな内容だったと思う。その頃のコンピュータ将棋というのはみなさんご存知の通りまだ弱く、プロレベルに達するのは当分先だと、おそらくほとんどの人が考えていた。まさか10年ほどでこんなに進歩するとは思ってなかったのではなかろうか。僕自身は「自分が生きてるうちには抜かれるんじゃないかなあ」という程度の予想だった。そして結果はと言うと、将棋のコンピュータは、多くの人の予想よりずっと早いペースで進化したのである。他の分野に関しては知らないが、少なくとも将棋に関する限り、上の説は正しかったようだ。
その後の僕の予想は、大学に入る頃には「自分が棋力が落ち始める頃には勝てなくなりそうだ」となり、しばらくすると「どうも近いうちに負けるかもしれない」に変わった。いまは、もし自分が負けても全く驚かない。少なくとも先日の将棋を見る限り、渡辺竜王が負けてもなんら不思議はなかった。今回はたまたま(という言い方は語弊があるが)人間が勝ったが、繰り返し指せばトッププロと言えども確実に負ける。だいたい24レーティング2800点といったら僕より上だ(笑)。だから渡辺君にぐらい勝ったって当然だ。というのは冗談が過ぎるとしても、竜王と言えども全勝はありえない。そういうレベルに達している。
これまた出典がなくて恐縮だが、いまコンピュータ将棋の世界では、トッププロに追いつく時期として「2012年」という説が有力だと、すこし前に聞いたことがある。だとすればわずか5年先のことであり、かつ、上の法則によればそれよりも早いわけだから、5年ももたないということになる。あれだけの実力を見せられると、たしかにそうかもしれないなと僕は思う。実際のところどうなるのかは分からないが、今後もボナンザがいっそう注目を集めることは間違いない。
さて、コンピュータvs人間という構図は、たしかに多くの人の興味を引くものではあると思うが、棋士としてはすこし残念な部分もある。それは、一度でもコンピュータが勝ってしまうと、そこでこのイベントはおそらくおしまいになってしまうという点だ。せっかくこれだけの観客の興味を引くイベントなのだから、何か工夫をして、しばらくの間競合していけないものかと思う。
将棋に限らず多くのゲームがそうだと思うが、プロレベルになると、いつも勝つということは難しい、と言うより不可能である。何番かやれば絶対に負ける。だから、一番負けたからと言って、即終わりにしないでほしいというのが僕の願いだ。ニュースとしてはそこで終わりなのかもしれないが、将棋のイベントとしては、それで終わりにする必要はないような気がする。
例えが適切かどうかわからないが、かつて女流棋士やアマチュアも、A級棋士やタイトル経験者を倒したこともあったし、立て続けに2,3番プロに勝ったこともあった。だからと言って、プロレベルに追いついたとか、あるいは凌駕したとか、そういうことにならないのは明らかだろう。その事実は、コンピュータ将棋でも同じではないだろうか。(ついでに言うと、チェスでも同じ)
もちろんコンピュータには、「ほぼ絶対的に、弱くなることはない」という決定的なアドバンテージがあるから、先の例とははっきり異なる、ということは言えるだろう。いつかは間違いなく人間を凌駕してしまう。さらにその先どうなるかは分からないが、たぶんそのときコンピュータは、上達のために欠かせないものになるのだろうと思う。
ただ僕の予想では、コンピュータが初めてプロに「1局」勝った日から、数年の間は競合関係が続くような気がしている。根拠は特にないのだが、「1番入った」と「追いついた」と「追い越した」はそれぞれ、ずいぶん差があるというのが僕の、20年将棋を指してきた中での実感だからだ。それがコンピュータにも当てはまるかどうかは知らないが、負けた翌年に再挑戦して最強コンピュータに見事リベンジ、そんな人間の姿も僕は見てみたいのである。門外漢の戯言かもしれないが、コンピュータ将棋の関係者の皆様には、ぜひ「人間が負けたそのあと」のことも、考えていただきたいと思う。
そしてもちろん、我々プロの側も覚悟しておかなくてはならない。いま考えておかないと、もう間に合わなくなる時期に来ているように思う。とりあえず僕は今日、初めてボナンザをダウンロードしました。これから彼との共存について、考えていきたいと思います。