2009年05月03日

将棋の「奥」について

 最近プロ将棋の「型」というものが、いままで以上になくなってきていることを強く感じる。そしてそれは、より本質的な意味において、将棋というゲームの原理に近づいているのではないかと思えてならない。

 「どうぶつしょうぎ」のヒットは、より少ない枚数・より弱い種類の駒たちによっても、(本)将棋に近いゲームになりうる可能性を示唆した。その奥行きが最終的にどの程度あるかは今後の研究を待つとしても、少なくともいまの自分には、具体的な解は得られていない。あの狭い空間でそれだけの奥があることには驚く。
 どうぶつしょうぎにはまだ定跡のようなものは整備されていないはずだから、頼りになるのは自分の「読み」だけである。見たこともない局面を前に、「こう行く、こう来る」という読みを繰り返していくしかない。しかるに普通の将棋だとどうなのだろう。

 将棋は長い歴史の中で、たくさんのセオリーが整備されてきた。その多くは「戦法」となり「定跡」にもなりあるいは「格言」になった。その結果序盤から終盤に至るまで、そのすべての可能性を探るのではなく、ある種の「法則」に基づいて指し手を決定できるようになった。将棋の進歩の歴史はそのまま、そうした勝つための「法則」を探り当てる歴史だったとも言えるだろう。
 そうして完成した法則は数多く、いまやプロでもすべてを網羅するのは大変なほど。だからいままでは、それをしっかりおさえていれば十分勝てたのではなかろうか。ところが最近の将棋には、まるで法則の裏をかくというか、あえていままでの法則の「例外」を探しているかのような将棋が多いと感じる。
 どういうときにそのような「例外」になるのか、「例外の法則」を探す段階に入ってきているように思われるのである。そのための試行錯誤、思考実験を、おそらくはほとんどのトップ棋士が始めている。表には必ずしも出ていなくとも、私はそう確信している。

 そもそも将棋のすべての局面は、原理的にはわずか3通りにしか分類されないはずである。すなわち、「勝ち」「負け」「引き分け」のどれか。私がなぜどうぶつしょうぎを引き合いに出したかと言えば、プロ棋士はあのゲームを前にしたら例外なく、解がその3通りのうちのどれなのかを出そうとするからである。そしてその意外な奥を知って驚くことになる。
 ではなぜ、実際の将棋ではそこまでしないのだろう?それはすでに、そうそう読み切れるものではないほど奥が深いことを、肌身に染みて理解しているからに他ならない。だから法則を探ることで、すこしでも有利に戦いを進めることに腐心してきた。

 しかしおそらく、法則探しの旅にはある程度「ケリがついた」。そしてこれからは例外探しの旅が始まる。否、もう始まっている。
 例外を掘り当てるのに必要なものは、たぶんすこしの勇気と、直観と、そして大量の読み。見たこともない局面において頼れるのは読みしかないから。そして将棋というのは原理的には、解にたどりつけるはずのものだから。たぶんこれからは「いくら時間があっても足りない」ような局面を前にする機会がどんどん増えることだろう。

 などということをつらつらと考えた。思考はこの先、将棋というゲームそのものの未来に向かうのだが、そこまで行くとそれこそ、時間がいくらあっても足りない。
 ただこの400年間所与のものと思われてきた初期配置や盤面なんかも、見直される可能性もあるのかもしれないと思う。原理的にはどんな配置の局面でも最善手の追究は可能だし、実際チェスはコンピュータに負けたあとそういう方向に進んだわけだから。その先の世界が居心地の良いものであればいいなと思う。


posted by daichan at 12:23| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする