この稿は数年後、あのときはどのように考えていたのかと振り返るときが、きっと来るだろう。それが楽しみでもあり、不安でもある。できれば明るい未来から、過去を振り返ってみたいものだと思う。
前回書いたように、現在の僕は、近いうちに、少なくとも自分が現役でいるうちには、コンピュータに勝てなくなる日が来るだろうと考えている。そのとき将棋というものはどうなるか、プロの世界というのはどうなるのか。正直想像もつかないが、遠くない将来、
将棋を指す一般の人<プロ<ソフト
という時代が来て、そのときプロ棋士の立ち位置は、一般のファンや女流棋士と同じ側になる、という説は正鵠を得ていると感じた。プロ棋士の立場から言わせてもらえば、それは
将棋を指す一般の人<<<<<プロ<ソフト
という状態であり、そういう意味ではプロ棋士が、こと将棋に関して極めて秀でていることは間違いないのだが、問題は一般のファンの人に、そう受け取ってもらえるかということだろう。
極めて強いプロ棋士が紡ぎだす棋譜を、楽しみにしているファンが見る。という時代は、やがて終わるのではないか。極端な言い方をすれば、僕の結論はこうだ。なぜならただ強いだけなら、ソフト同士の将棋を眺めていればいいという時代が来るわけだから。
ただそうは言っても、現在の対局システムが、簡単になくなるとも思えない。しかし棋譜の見方、見せ方は、変わってくるような気がする。また、変えていかないと生き残れないだろうと思う。
意識しているかどうかに関わらず、現在のプロ将棋界は「最高峰の技術」を見せるという側面が強いように思う。受け手も最高峰の戦いだからこそ、それを楽しみに見る。そこから徐々に変質して、「この人の対局だから見に行く」「この人が指しているから棋譜を見る」というような「この棋士」を見せるようになるのではないかと、僕は考えている。まあ当たり前と言えば当たり前なのだが、そういうふうに変わっていかざるを得ないように思う。それが一部のトップ棋士だけでなく、棋士一人一人に課せられていくような気がする。
こう書いておいて、では具体的に何をすればいいのかと言うと、正直なところ良く分からない。ただ、これからは棋譜よりも棋士を前面に出していかないといけないのではないか。これは1年ほど前にある知人に言われたことだが、その意味をいまになってすこし理解できてきたような気がする。
いまの将棋界は、対局の成績以外に、棋士個人の情報はほとんど表に出ていない。それだけ、成績が大事であり、それのみによって序列づけられた世界だったということではないだろうか。だがそれが本当に「仲間内の知恵比べの場」(上記リンク先その5より)になってしまうとき、他のところにも価値を求めていく必要があるのではないか。そういう危機感を、すくなくとも僕は持っている。
いますぐにでもできることの一つとして、例えばもうすこし棋士の盤外の活動(これは何も「普及」に限らない)を表に出す努力を、連盟が組織として行っていくべきではないだろうか。棋士の価値を高める、あるいは宣伝していく努力が、もっと必要ではないかと強く感じる。
誤解のないように付け加えておくが、僕はだから将棋が弱くてもいいだとか、良い棋譜にたいした価値はないだとか、そういうことを書いているのではない。棋士にとって将棋の技術を磨くことは何よりも大事で、それはこれからもそうだろう。技術の高さは、プロとしての生命線であり続けるべきだと思う。
一方で、ただそれだけではプロと呼ぶに足りないと見なされる、そういう時代がすぐそこまで来ているとも感じる。今後の棋士は高い技術を持っていることを前提に、それを生かして将棋ファンのために何ができるか、そういう側面が問われるようになるのだろうと思う。
僕たち棋士はみんな将棋バカだから、はっきり言って将棋以外のことは基本的に得意ではない。まあそれでもなんとかなってきたわけだが、どうも今後はそれではダメらしい。だから何とかしなきゃいけない。いまの自分の気持ちを大雑把に書くと、まあこんな感じになる。
でも別にそんなに悲観はしていない。一芸に秀でた人がこれほどそろっていて、船が簡単に沈むとは思えないからだ。ただ、その能力を生かして何かやるには、どうしても外部の知恵が必要になるだろうと思う。仲間内のことは仲間内だけでやったほうがいい場合も多いだろうが、相手がいることに関してはまた別だろうから。
自分はそのための耳と口の役割になろうと、最近はそんなことを考えている。以前も書いたが、棋士も得意分野を持つ必要があるだろう。それはどんな小さな組織でもやっている「役割分担」ということに他ならない。そうしていろいろな角度から将棋ファンにアプローチしていければ、きっとこの世界の未来は明るいと信じている。
今回はリンク先を受けて、プロ棋界について展望してみた。もうひとつ、将棋というゲームそのもの(の変質)についても書いてみようと思ったのだが、それはまたの機会にします。
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プロ棋士がコンピュータに初めて負ける日までは、結構な騒ぎになるのでしょうが、いったん負けてしまえばそれでその話題は終わりになるのだと思います。
確か谷川九段がおっしゃっていたと思うのですが、例えば時速200kmのスピードボールを投げるバッティングマシンを相手にした野球を見たいとは思わないでしょうし、チータにかなわないからといって陸上短距離種目に価値がないわけではない。
あくまで将棋は人間対人間の闘いに意味がある。
「最高峰の技術を見せる」ことに、もちろん価値はありますが、往々にして一般のファンにとって、高すぎる技術は理解できません。
むしろ、横歩取り8五飛戦法の最盛期のように、毎度毎度同じような将棋(でありながら最先端のところで少しずつ工夫があって一歩一歩定跡が進化していくような将棋)ばかり見せられても、そういうのはプロの趣味でやってほしいと感じてしまうことさえあるように思います。
それよりも、人間の意地、執念、気迫が指し手に現れた将棋に、興奮を禁じ得ないのではないでしょうか。
かつて、米長永世棋聖が名人位にだけは挑んでも挑んでも届かず、50歳・7度目の挑戦にしてようやくその座をつかんだとき。
阪神大震災に被災した谷川王将が、七冠を目前にした羽生六冠に立ちふさがり、フルセット・千日手指し直しの末、勝利を得たとき。
こうした、語り継がれる名勝負ばかりではなく、例えば彗星のごとく現れた里見女流が勢いに乗って矢内女流名人を追いつめた先のレディースだって、技術だけを問題にするならあれほど関心を呼ぶことはなかったでしょう。
そして、個人的には昨年末の日本シリーズ東京大会の佐藤棋聖対郷田九段戦が印象に残っています。
その前の、小学生の闘いが、プロの将棋のように洗練されていて(かつてのようないかにも「子ども」の指し手がほとんどなかった)驚かされたのですが、逆に佐藤ー郷田戦は、プロならではの強烈な「意思」を感じる指し手の応酬が、これはやはりアマチュアには絶対に創れない棋譜だなと思い知らされました。
よく「負けても指せない手」という言い方があります。
コンピュータ将棋には、そういう言葉はないような気がしますが、人間が、勝利のために平気でそういう手を指すようになる姿は、あまり見たいと思いません。
これからも、人間同士の真剣勝負を期待したいと思います。
それと、プロ棋士の方には、そうした真剣勝負を味わうための解説(技術的解説を含む)をお願いしたいと思います。
「その後の世界」についてプロ棋士の方が考察されるのはごく当然だと思います。
逆にいうと「その時」が来るまで漫然と過ごすような方は「その後の世界」では居場所を無くすのではないかと他人事ながら心配になります(笑)
それから最後の方で片上さんが書かれた「将棋というゲームそのもの(の変質)についても、、」という部分ですが私はあくまでも将棋ファンの立場から、ネットとコンピュータの発達を前提として色々考えてきたことがあります。
時間ができたらサイトにまとめて公開するつもりですので、その節にはぜひご意見をお寄せください。
「ゲームを楽しむファンの立場」と「ゲームをコントロールできるプロの立場」が交わることができればそこにはそれなりのニーズ(市場)が生じると思っています。
これからも、注目される将棋を指せるように、盤上盤外で頑張ります。
あと、太助さん、楽しみにしています。そのときはまた、コメントなどで教えてください。
おっしゃる意味はよくわかります。
>どの変化を追求し、得られた結果をどう表現するかは解説の作者の腕次第です。
このあたりに、鍵がありそうですね。
最近のソフトの強さは先の渡辺竜王対ボナンザ戦を拝見して良く解りました。プロ棋士も大変でしょうが、しかしこれからは益々人間対人間の戦いが恋しくなりますのでその存在価値は高まると思います。只、老婆心ながら持ち時間の長い棋戦、特に二日制棋戦はどうかと思います。ソフトが強くなり
そっくり真似なくても、どの様な手をPCが指すかと検討されてしまう恐れがあります。生身の迫力有る対局を望んでいる将棋ファンには少々もの足りません。
是非、人間味のある迫力有る将棋を私達に披露して下さい。
敬具
持ち時間が長すぎるのではないかという意見は二日制にかかわらずよく耳にしますが、僕はいろんな棋戦があるのが良いのではないかと思っています。
ネット棋戦が始まったりで、これから早指しは増えると思いますが、一方で伝統的なタイトル戦の姿も大切なのではないか、そちらを楽しみにしておられる方も多いのではないかと考えています。
http://www.toyokeizai.co.jp/mag/toyo/2007/0623/index.html
遅いコメントで恐縮ですが、コンピュータ将棋のエントリ大変興味深く読ませていただきました。チェスを10年くらいやっている人間の視点から、チェス界における「その後の世界」について述べさせていただきます。
1)チェスコンピュータの現在の実力
レーティングにして人間の世界トップクラスは2800弱ですが、コンピュータは2900を少し越えたあたりだと思います。昨年のDeep Fritz対Kramnik(Kramnikの0勝2敗4分)もこの点差を裏付けていると思います。いまやどんな頑固な人もコンピュータのほうが人間より強いと認めざるを得ない状況です。
2)「その後」のプロのチェスプレイヤー
結論から言って、特に人気は落ちていません。理由は人間とコンピュータの棋風があまりに異質なため、コンピュータより弱いからといって単純に人間の棋譜の商品価値が落ちなかったこと、またチェスは将棋と違ってずっとプロ組織が薄弱なため、単純に「俺は強い」というだけで食えていた人がそもそもあんまりいなかったことがあると思います。
3)人間とコンピュータの協調
現在、チェスの本や観戦記は、「ソフトで分析をチェックする」のが当たり前になっています。序盤研究や自分が指したゲームの分析にソフトを使わない人もまずいません。直線的な読み合いはコンピュータが圧倒的に有利ですが、いわゆる大局観に相当する部分は人間にまだ一日の長があります。そういう意味では、ある程度うまく協業できていると思います。
以上、将棋で同じことがおこるかどうかはわかりませんが、ご参考にと思い書き込ませていただきます。