2007年07月30日

社団戦

昨日は昼前に起き、選挙をすませてから社団戦に行ってきました。

正式名称「社会人団体リーグ戦」。同じ職場でチームを組む「職団戦」とは違って、自由にチームを組んで年5回の日程に分けて戦うというユニークな団体戦です。ちなみに「社会人」とありますが学生や子どももいます。参加しやすさが売りで、年々参加チームが増えている、と聞いたことがあります。
以前から一度見に行ってみたいと思っていたのですが、なかなか機会がなく今日に至っていました。昨日初めて行ったのは、ある先輩棋士二人と話したことがきっかけでした。

曰く、「あれだけたくさんの将棋ファン(それもコアな)が集まる場所に、棋士が誰もいないというのはおかしい」と。社団戦に限らず、アマチュアの方がたくさん参加してくれている将棋大会の場に、全く足を運ばないというのは良くない、できる範囲で構わないので、ときには足を運ぶべきであろうと。そりゃそうだなあと思ったので、さっそく実行したのでした。お二人はアマチュアとの交流を大事にされていて、非常に距離が近い棋士という印象があります。

そのとき「ふらっと見に行ってみて、何か見かけない人がいるなあと、そんな目で見られるのも良い経験だよ」と冗談交じりで言われました。僕は右の脳で「たしかに自分のこと知らない人もたくさんいるるだろうなあ」と思いつつ、左の脳で「いやあ、でもいくらなんでも・・」と聞き流していました。
行ってみて、単なる冗談ではないということは理解しました。右の脳の勝利です。将棋を指すのは好きだけど、プロなんてよく知らないという人も、たしかに大勢いるのでしょうね。僕は子どもの頃広島カープの選手はけっこう知ってたので、まずはプロ棋士もそのぐらいは認知されたいものだと思いました。

ちょっと話はそれますが、先日の王座戦の一斉対局、およびLPSAのパーティーで、羽生三冠がはしごされてました。“羽生さん”が来てくれて参加したファンはさぞ喜ばれただろうし、その姿勢はいつも尊敬していますが、ああいうのを見ていると、この世界はあまりにも一部のトップ棋士に負担がかかりすぎているなあと思ってしまいます。仕方ない意味もありますが、トップ以外の棋士の立場としては、すこしでもそれを軽減できるように皆で考えるべきだと思います。そうでなくては、全体の発展は望めないでしょう。

というわけで、自分が一流棋士を目指すのはもちろんのことなのですが、そうでなくても、自分の知名度を上げる努力をしたいなあと、しみじみ思いました。認識されるということが、ファンになってもらうための第一歩であって、それは「将棋」そのものだけに限った話ではありませんので。


会場では大学の先輩・後輩はじめ、久々にお会いする方、地方から来られていて普段はなかなかお会いできない方、元奨励会員、来週初めて稽古に伺う方などなど、たくさんの知り合いにお会いできたので良かったです。大会に参加している人たちに総じて言えるのは、将棋を考えているときの表情がとても良い、ということです。本当にたくさんの真剣な表情に接して、何だか癒されました(笑)妙な話なんですが、本当です。


ただ行くのも何なので、竜王戦の優勝記念に作った夫婦扇子を持っていったのですが、これがほとんど買ってもらえませんでした。ボーっとしてても買ってもらえないよと、嫁に怒られました。たしかに、見たことない怪しげな兄チャンが座ってても、そりゃ誰も近寄らんわな・・・
モノを買ってもらうのって、想像以上に恥ずかしいんですね(^^;初めて知りました。
また脱線しますが、いま将棋連盟の販売で一日館長というのをやっていますが、これが大好評で売り上げがかなり伸びていると聞きました。やっぱり女性はすごい、とそれを聞いてとても感心しました。ちなみにLPSATシャツもけっこう売れてたみたいです。

来月の社団戦の日はちょうど僕の初の著書が出る時期とちょうど重なるので、懲りずに持って行こうと思います。また怒られそうですが(^^;何事も修業です。もし興味がありましたら、どうぞよろしくお願いします。

僕は基本的に初対面の人と話すのがとても苦手で、だいたい話かけられてもしり込みしちゃう場合が多いんですが、別に嫌がってるわけではないので、どうか見かけたら気軽に声かけてください。


会場の話に戻って、僕は3局目・4局目と2局観戦。1部が強豪ばかりなのは当然として、3部・4部もかなりレベルの高い将棋が多いのは驚きました。正直もっとメチャクチャな将棋ばかりかと思っていたのですが(笑)
一番下の4部でチームを率いていたシマケン君と「自分たちが知らないだけで、本当は将棋が強い人というのは世の中に山ほどいるのかもしれない」という話をしました。良い将棋を指す人は本当にたくさんいるんですね。何だか明るい事実に気づいたような気がしました。

戦型は、やはり大半が振飛車系の将棋。相居飛車は3割ぐらいでしょうか。内訳は半分が矢倉、残り半分がそれに類するもの(?)。けっこう多かったのが右玉です。右玉の本ってあまり見覚えがないので、出せばけっこうヒットするのでは?と思いました。ちなみに横歩取りや相掛かりは100局に1局ぐらい、角換わりは僕の見た限りでは会場中で1局だけでした。プロもこの事実は少しは気にしたほうがいいかもしれませんね。


とまあ、とりとめもなく。本当はopinionに書く内容じゃないんですが、長くなったのでこっちでupすることにしました。来月もたぶん行きます。あと、夏は各地で大会や将棋まつりが行われます。僕も仕事以外でもときどきは顔を出そうと思いますので、見かけたらぜひ遠慮なく声かけてください。


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2007年11月04日

囲碁フェスタ

先週行った囲碁フェスタのことについて書きます。来年も行われるかもしれませんので、興味のある方はIGO AMIGOのHPをチェックしましょう。

僕は囲碁は初心者(たぶん7,8級)で、中学高校時代にすこしやったことがある程度です。道場だとか大会とかイベントとかには全く行ったことがなくて、一度参加してみたいとは思っていたのですがきっかけがない状態でした。今回たまたま知人に誘っていただいたのと、実際にウェブサイトを見てみると非常に興味を引かれる内容だったので、参加してみることにしました。「四千年間、なかった」っていいキャッチフレーズですよね。

将棋もそうだと思うのですが、初めてどこかに出かけていくというのはなかなか勇気がいるものです。思えばバックギャモンのときもそうでしたし、今回もどんな感じか全く分からないので、行くまではけっこうドキドキしました。参加してしまえばたいがいは楽しめるものなんですが、最初の一歩は大変です。だからもし周りに「参加してみたいけど、なんとなく不安」という人がいたら、ぜひ声をかけてあげてほしいと思います。そういうのって、我々の努力ももちろんあるのですが、身近な人がきっかけをくれるのが一番だと思うんですね。

もちろん「面白そうだな」と思わせることも大事だし、そして実際の中身も大事なんですが、きっかけはごく身近な「輪」なんだなと、実感しました。この「IGO AMIGO」という集まりは、主に愛好者の少ない20〜30代に囲碁を広めていこうという活動をされているそうです。スタッフもほとんどが若い人ばかりで、若者同士の輪を広げていこうとしている様子がうかがえました。

囲碁は普及の組織化がすごく進んでいると感じ、それは非常に羨ましい点の一つです。正直言ってあれだけの数のボランティアスタッフを動員してイベントをやるなんて反則級です(笑)将棋ではあんなことはなかなか難しいでしょう。
あれだけのイベントで参加費2000円はかなり安いと感じましたが、それはボランティアのスタッフがたくさんいたからこそ実現できたのだろうと思います。

「普及」というのは文字通り広く行き渡らせることで、それには時間も労力もかかります。それには熱意ある若者の力が不可欠なんだな、と改めて思いました。僕も将棋を広めたい気持ちはもちろんありますが、正直なところあそこまでの熱意はありません。ですが自分のできる範囲で、頑張ろうと思います。

当日の話に戻って、会場に着いたのが1時すぎ。あまりの広さにびっくり。なんとなく100人規模かなあと予想してたんですが、数百人はいましたね。これはすごいことです。
最初に渡されたのがクイズの用紙。後で出てくる「囲碁マニア王決定戦」の予選だったようです。これを提出して、さらに指導対局の申し込みをしてから(笑)、開会式。ギャモン界ではおなじみの武宮先生がダンスを踊っていてかなりびっくり。合間に一緒に来た友人と数局。僕には19路盤は大きすぎるので、9路盤や13路盤のほうが好きです。囲碁は大きさやハンデが自由自在なので、初心者に優しいゲームと言えます。その代わり、勝ち負けが分かりにくいという欠点があります。このあたりはお互いに「他人の芝生は青い」って感じなんですかね。

そのあといろんなブースを回って講座を物色。棋力ごとにいくつかのクラスに分かれて、ほぼひっきりなしにやっていたようです。やっぱりというか、僕が見た限りでは万波佳奈さんが一番人気だったかな。彼女は可愛いだけでなくて、話がとてもうまいですね。彼女に限らず、囲碁の棋士はみんな壇上に上がってもすごくハキハキしていて、話し慣れているような気がしました。将棋にも話のうまい人はたくさんいますが、負けている気がします。
ちなみに万波さんの講座は自分の実戦の解説で、僕には難しそうだったのでスルー。タイトルは忘れましたが「石のつながり方」のような講座を見ました。強くなったかは不明です(笑)小さい子どもがテキパキを解答していて感心、とこれはどこの世界でも同じですね。

どの時間でもどの棋力の人でも楽しめるように工夫されているのはすごいなと思ったのですが、一つ残念だったのは声がよく聞こえないこと。仕切りがないのでひょいっと覗けるのはいいんですが、会場のアナウンスで、先生の声が聞こえないんですよね。みんなメガホンでしゃべってたけど、声が嗄れなかったか心配です。たぶんどうするか悩んだんだと思いますが、そのせいで講座来なかった人はけっこういたんじゃないかなーと推測。客はわがままですからね(笑)

ところでこれを将棋に置き換えてみると。
たとえばA級最終日の大盤解説会は毎年大盛況で、二部屋に分かれてやっていることが多いんですが、棋力の高い人向けの解説をする部屋と、そうでないのと、分けてみるのはどうだろう。というようなことを思いました。実際にうまく棋力に合わせてできるかは難しいですが。

そうこうするうちに指導対局の抽選はハズレ。そのあと真ん中の開会式をやったステージで「マニア王決定戦」。レベル高すぎて唖然。ようはクイズなんですが、よくもまあこんなの考えたなあと。そして知ってるなあと。これは将棋でも簡単にマネできそうですけど、どうですか某教授に某マニアさん、某マニハルさん(笑)
こういうのって一歩間違うと寒い企画になりかねない気もするんですが、僕は見ていてかなり楽しめました。実際、帰りがけに囲碁・将棋チャンネルの人に「何が一番面白かったですか?」と聞かれたのでそう答えました。僕のこと知ってたのかどうか(笑)

他にも碁石つかみ取りとか、お約束のルールを全く知らなくても楽しめるコーナーもあったようです。個人的にはそういうコンセプトのものはあまり好きではないのですが、実際のところやっぱりルールを知らない人たちにも楽しさを知ってもらうことは重要でしょうね。

最後のトリが10秒リレー碁。内容はさっぱり分からないので、梅沢さんのトークを楽しむ。10秒将棋というのは悪手は出るにしても、指すだけならそんなに難しいことではありません。だからこそ、「目隠し10秒」なんて企画が出るわけです(これは大変です)。10秒+リレーというのは見たことがないので、どれぐらい大変なものなのかやってみたい気はします。
このコーナーは、いかんせん内容が分からないので、弱いなりになんとなく意味を理解しながら見たい僕には、それほど面白いものではなかったです。でも壇上の棋士の皆さんは大騒ぎしてて楽しそう(苦しそう?)でしたから、きっと企画としては成功だったと思います。

今年はAISEP日本文化祭りなど、新しいイベントに参加する機会がけっこうありました。それらは皆若い人たちが中心となって企画・運営したものばかりです。将棋・囲碁にとどまらずいろいろな分野で、既存の枠にとらわれない新しい試みが求められているということなのだろうと解釈しています。僕はそういったことを自分でやるのは得意なほうではないですが、ときには何か、関わりが持てたらと思っています。新しいことというのは苦労もありますが、ほとんど例外なく面白いものです。改めてそう思えたことは、今回の大きな収穫でした。

あと内容とは直接関係ないんですが、プロがみんなTシャツで講座やったり指導やったりしてるのが、普段そちら側の人間としては非常に新鮮な感じでした。と言うのも、スタッフ・プロみんながその日のために作ったと思われるTシャツでおそろいなんですね。若者向けのイベントなので、カジュアルな感じでとても良いと思いました。将棋祭りなんかでもスーツ姿の棋士しか見たことない人がほとんどだと思うんですが、ときにこういうのも良いのではないでしょうか。こうしたちょっとしたことが、案外新しいことだったりするものです、

もう一つの収穫は、囲碁をやると初級者の気持ちがよく分かる、ということです。僕は石を取られないようにするのは比較的得意なんですが、「取られても良い」ことが分からなかったり、あるいはシボリやウッテガエシのような、取らせて取り返したり追い詰めていったりという手をうっかりすることがよくあるようです。それを友人に言うと「将棋ならできるのに」と笑われますが、そうは言ってもそれができないから初級者なわけです。囲碁をやると弱い人が分からないことが分かるので、なんとなく指導に役立つような気がしています。だから囲碁は、あんまり強くならなくて良かったかもしれません。
posted by daichan at 00:45| Comment(5) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月31日

振り返る。2

小部屋に続いてこちらも、一通り読み返してみました。なんとなく、これで無事年が越せるという気分です。


はじめのほうで書いている通り、こちらがメインページのつもりでした。自分自身の分析としては、すこし肩に力が入っている感じはしますが、おおむねよく書けているなという印象でした。何年かするとまた変わるかもしれませんが、いまの自分から見てもうなづける内容が多いです。

女流観戦記テレビコンピュータと、opinionに取り上げた内容はそのまま僕自身の関心を素直に表しています。興味のある方はそれぞれのリンク先を読んでみてください。
そしてこのエントリは、このブログ前半の集大成と言って良いような内容になっている気がします。ここに書いたことは、きっとまた何年か先に思い出すのだろうと思います。


後半は急に更新が途絶えてしまいましたが、これは他のところでも書いた通り、決して意見がなくなったわけではありません。ただ、始めた頃のような強い言葉で一つのエントリにまとめるという、モチベーションが下がったことが原因です。今後どういう形で発信していくのかは分かりませんが、こちらのブログも続けていきたいとは思っています。

きっかけは何だったのか、たぶん6月頃本の執筆がピークに差し掛かっていたのが大きかったのではないかと思います。その後はいろいろと紹介する機会が増えたりとか、日常のことを書くのが楽しくなってきたりとか、そういったことが原因だった気がします。

来年どういうスタンスでいくか分かりませんが、とりあえずは当初の月1回程度の更新が目標です。来年もよろしくお願いします。
posted by daichan at 17:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月03日

将棋の「奥」について

 最近プロ将棋の「型」というものが、いままで以上になくなってきていることを強く感じる。そしてそれは、より本質的な意味において、将棋というゲームの原理に近づいているのではないかと思えてならない。

 「どうぶつしょうぎ」のヒットは、より少ない枚数・より弱い種類の駒たちによっても、(本)将棋に近いゲームになりうる可能性を示唆した。その奥行きが最終的にどの程度あるかは今後の研究を待つとしても、少なくともいまの自分には、具体的な解は得られていない。あの狭い空間でそれだけの奥があることには驚く。
 どうぶつしょうぎにはまだ定跡のようなものは整備されていないはずだから、頼りになるのは自分の「読み」だけである。見たこともない局面を前に、「こう行く、こう来る」という読みを繰り返していくしかない。しかるに普通の将棋だとどうなのだろう。

 将棋は長い歴史の中で、たくさんのセオリーが整備されてきた。その多くは「戦法」となり「定跡」にもなりあるいは「格言」になった。その結果序盤から終盤に至るまで、そのすべての可能性を探るのではなく、ある種の「法則」に基づいて指し手を決定できるようになった。将棋の進歩の歴史はそのまま、そうした勝つための「法則」を探り当てる歴史だったとも言えるだろう。
 そうして完成した法則は数多く、いまやプロでもすべてを網羅するのは大変なほど。だからいままでは、それをしっかりおさえていれば十分勝てたのではなかろうか。ところが最近の将棋には、まるで法則の裏をかくというか、あえていままでの法則の「例外」を探しているかのような将棋が多いと感じる。
 どういうときにそのような「例外」になるのか、「例外の法則」を探す段階に入ってきているように思われるのである。そのための試行錯誤、思考実験を、おそらくはほとんどのトップ棋士が始めている。表には必ずしも出ていなくとも、私はそう確信している。

 そもそも将棋のすべての局面は、原理的にはわずか3通りにしか分類されないはずである。すなわち、「勝ち」「負け」「引き分け」のどれか。私がなぜどうぶつしょうぎを引き合いに出したかと言えば、プロ棋士はあのゲームを前にしたら例外なく、解がその3通りのうちのどれなのかを出そうとするからである。そしてその意外な奥を知って驚くことになる。
 ではなぜ、実際の将棋ではそこまでしないのだろう?それはすでに、そうそう読み切れるものではないほど奥が深いことを、肌身に染みて理解しているからに他ならない。だから法則を探ることで、すこしでも有利に戦いを進めることに腐心してきた。

 しかしおそらく、法則探しの旅にはある程度「ケリがついた」。そしてこれからは例外探しの旅が始まる。否、もう始まっている。
 例外を掘り当てるのに必要なものは、たぶんすこしの勇気と、直観と、そして大量の読み。見たこともない局面において頼れるのは読みしかないから。そして将棋というのは原理的には、解にたどりつけるはずのものだから。たぶんこれからは「いくら時間があっても足りない」ような局面を前にする機会がどんどん増えることだろう。

 などということをつらつらと考えた。思考はこの先、将棋というゲームそのものの未来に向かうのだが、そこまで行くとそれこそ、時間がいくらあっても足りない。
 ただこの400年間所与のものと思われてきた初期配置や盤面なんかも、見直される可能性もあるのかもしれないと思う。原理的にはどんな配置の局面でも最善手の追究は可能だし、実際チェスはコンピュータに負けたあとそういう方向に進んだわけだから。その先の世界が居心地の良いものであればいいなと思う。
posted by daichan at 12:23| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする