「女流棋士」というものについて僕がある程度の知識を得たのは、たしか女流棋士発足30周年のパーティーが行われた前後だったと思う。いまから3年ほど前のことで、自分がちょうど四段になった頃のことでもある。やはり奨励会員ではわからないことも多かったのだと思う。
このブログにたどりつくまでに、ほとんどの人が「正会員でない」という言葉を目にしたと思うが、このことの意味が自分がそうなるまではなかなかわからなかった。記事を目にした一般の方の多くは「それで結局、女流棋士というのはプロなの、そうでないの?」という疑問を抱いたと推測するが、まさに彼女たちはプロであってそうでないような、複雑な立ち位置なのである。このことが今回の最も大きな原因であって、定義があいまいなままでなければ、こんなことにはならなかっただろうと僕は思う。
一般的に言って、女流棋士は弱い。これはプロアマ問わずある程度将棋を知っている人なら常識である。最近はアマが(男性)プロにちょくちょく勝つようになっているが、そういう強い「アマ」というのは実は一部の女流「プロ」よりはずいぶん強い。「このために」、女流棋士は肩書きはプロでありながら、内部では「プロ」としてみなされていないようなところがある。
しかし、である。この「弱いから」という理屈は若干複雑な問題をはらんでいる。この理屈を将棋ファンが言うぶんにはかまわない。そういうお客さん、つまり女流は弱いから問題にしない、という将棋ファンは意外と多い。そのことを女流棋士たちは知るべきだし、そうしたファンを振り向かせたければ頑張って強くなるしかない。実際にそういう人たちが女流棋士より強いかどうかはともかく、そういうスタンスでプロと接するのはその人の自由であろうから。
だが男性棋士(注1)が「弱いから」女流棋士たちをプロとはみなさない、というのは大きな間違いだろう。なぜなら、彼女たちを「女流棋士」(=プロ)として組織してきたのは男性棋士の側であるからだ。「プロと呼ぶには弱い」女性たちを「女流棋士」として遇してきたのは、将棋連盟を組織する男性棋士の側に他ならない。組織として見たときに、「日本将棋連盟」に属する男性棋士たちが、「女流棋士」たちをプロとして認めないのは、明らかに矛盾がある。そして、現在までの女流棋士の待遇というのは、プロと呼ぶにはあまりにも悪い。
そうは言っても、これは組織としてみた場合の話であって、棋士個人となるとまたすこし話は違ってくる。言うまでもなく、男性棋士たちは皆一人の例外もなく、女流棋士たちよりはるかに苦しい修行時代を過ごし、厳しい競争を勝ち抜き、8割の人間が夢破れて去っていく中でプロの座を「勝ち取って」きた。繰り返し断言するが、これは絶対に一人の例外もない。簡単にプロになれてしまう女の世界とは違う、という感情が湧いてきても仕方がない。自分自身も、なぜ自分よりはるかに弱い人たちがプロなのか疑問を抱いたことはあった。それを通り越して、あんなのはプロとして認めない、という感情が出てくるのも大いに理解できる。ここに個人の感情と、組織の論理との決定的な違いがある。(注2)
僕は現在、当然ながら女流棋士にはかなり好意的な立場の棋士だと思うが、心の中で女流をプロと認めていない男性棋士というのは、残念ながら極めて多いと思う。
再び組織の話に戻るが、女流棋士の待遇が悪いということの一つに、「決定権がない」という言葉を目にした方が多いだろうと思う。棋戦の契約・育成会の運営などをはじめ、現在女流棋士会として活動するすべてのことは将棋連盟理事会に決定権限がある。このことが、僕が四段になるまではよく知らなかったことのひとつであり、彼女たちがプロでありながら、内部ではプロとして認められていないことの象徴であろうと思う。
このことを考えるとき、僕の頭には「自治権」という言葉が浮かぶ。女流棋士たちにはこれまで、どんな些細なことであれ自治権は全く与えられていなかった。すこし大げさな言い方をすれば、(女流棋士会という)組織が力をつけてくれば、やがて自由を求める戦いへと発展するのは、歴史の必然だったのではないだろうか。
それぞれの時代にはそれぞれの事情があっただろうし、いまから見てこうすべきだったということは必ずしも正しくないかもしれない。ただ、将棋連盟はもっと女流棋士に関心を持ち、将棋界の発展のために活用するすべを考えるべきであったということは言えると思う。強さという点が足りないならば、それを伸ばす方策(例えばプロ入りのハードルを高くするとか、何らかの方法でプロ入り後にも厳しい競争を課すとか)、あるいはそれを補う方策を考えるべきであった。また、もっといろいろな形で活用することで、待遇を改善するべきであった。例えば女は聞き手、男は解説といったい誰が決めたのか。女であるから解説ができないはずはないし(もちろん、強くないとできないということはあるが)、逆に男だからと言ってできるとも限らない。そういったことは権限のある、時の理事会の考えるべき仕事であったと僕は思う。
ここで再び感情の話に戻る。あくまでも僕の推測だが、不幸なことにこの感情は「無関心」へと昇華されていくケースが多いようだ。一般的に、男性棋士の女流への関心は驚くほど低い。これがどういう原因によるものなのか僕にはまだよくわからないが、ここ2年あまりで女流棋士の問題が棋士会などで話し合われたことはほとんどなかったように思う。つい先日の棋士会も普段と変わらない人数で、名人戦問題の起きた4月と比べるとたぶん半分にも満たなかった。これでは現状を変えることは難しい。
例えば女流棋士が、自分たちのことは自分たちで決められるように、将棋連盟の制度を変えることはそれほど難しくなかったように思える。連盟にとってそれほど不利益な話であるとは思えないからだ。だが現実には、多くの棋士が無関心でいる以上はそれさえも実現しない。そのことを知ったとき僕は、女流棋士は早く独立すべきだと思った。彼女たちの才能を生かし、活躍の場を広げるには、現状ではそれが最良の方法であると思った。
将棋に関して、女であるがゆえにできないことはおそらく何もないだろう。棋力が低いがゆえにできないことはいくらかあるかもしれないが、全体から見ればそれもたかが知れているのではなかろうか。四段になることだけを目標にしていた頃には考えもしなかったことだが、いまは本心からそう思えるようになった。
僕は今回の経緯についてはほとんど何も知らないし、応援できることも何もないが、彼女たちの成功を心から願っている。組織というものを動かしたり新たに作ったりする苦労は自分には全くわからないが、多くのファンの支えがあればきっとうまくいくことだろう。既存のファンも新しくこの世界を知った方も、これからもどうか温かく応援してほしいと思います。
それにしても、今年は本当に「プロとは何なのか」と考えさせられる出来事が多かった。一般的に言って、女流棋士というのは男性に比べるとプロ意識が高いように思う。いろいろ理由はあるだろうが、そうでなくては生き残れなかったというのが大きいのではないかと思っている。「プロ意識」という部分に関して、きっと我々男性棋士が見習うべきことが多々あるのではないかと思う。プロ意識については将棋世界の最終回でも多少触れたので、それはまた稿を改めたい。
(2006年12月6日 記)
(注1)業界用語では「棋士」というと原則奨励会を抜けた四段以上のプロ(将棋連盟正会員)のみを指し、女流棋士や指導棋士は含みません。「女性の棋士はまだ誕生していない」というのはこういう意味です。この稿では分かりやすくするために、業界にはない「男性棋士」という言葉を使いました。
(注2)補足すると、奨励会員(外部)と棋士(正会員)の違いも大きい。奨励会時代に抱いた感情を、棋士になった(=組織の一員になった)とたん捨てろと言われても難しいのはお分かりいただけるだろう。