2007年01月02日

観戦記について@

 いろいろ書きたいことが多くて、まとめるのに時間がかかってしまいました。Aがいつの機会になるかは分かりませんが、今回は「即時性」というテーマに絞って、書いてみたいと思います。

 将棋界をこれまで支えてきたもの。その柱の一つが、新聞社というスポンサーであり、それぞれの新聞に掲載されてきた観戦記であろうと思う。新聞に将棋が掲載されることで、棋士たちはお金を得て、同時に将棋の普及にも役立ってきた。その観戦記が「インターネット」という新たなメディアの出現で変わろうとしている。また、変わっていくべきだと思う。

 かつて新聞の観戦記というのは「即時性」を備えたものだったのではないかと想像する。昔のことはわからないのであくまでも推測だが、かつては新聞が将棋の詳しい内容を知るための、最速にしてほとんど唯一の手段であり続けたのではないだろうか。「将棋雑誌があるじゃないか」と言うなら、新聞を「出版物」と読み替えてもらってもよい。その状況がいま、インターネットの出現により、大きく変化している。

 たとえば、いま渡辺竜王の将棋について詳しく知りたければ、見るべきものは週刊将棋でも将棋世界でもなく、渡辺明ブログであることは広く知られていると思う。本人の記事が最も信頼できる上に最も早いと来ている。この現実は実際に取材して記事を書く人にとっては厳しいが、その現実を乗り越えて、それでも読みたいと思わせるだけの物を書かないと読者はついてこない。一言で言うと、書き手のその人なりの個性を出していくしか方法はないと思う。
 新聞の観戦記も同じことで、結果も、場合によっては内容もネット上で見ることのできる対局について、後発で類似の記事を出しても読者は評価してくれないだろう。満足させるには内容を良くするしかない。何が言いたいかというと、「即時性を自然と備えていた時代と同じやり方をしていてはだめだ」ということである。

 現在の新聞観戦記というのは、だいたい対局から1ヶ月後ぐらいに掲載されるものが多いが、中には数日中に掲載されるものや、逆に3ヶ月ぐらいたってから掲載されるものもある。読者は一般に、掲載は早いほうがいいと思われるかもしれない。たとえば、遅くなるとこんな指摘もある→対局時期と掲載時期がかけ離れている物が結構多いので、掲載時期を忘れてしまうという事が多いのです。

 しかし僕は必ずしも掲載時期が遅いことが悪いとは思わない。問題は、すべてが同じような取材方法、同じような書かれ方をされていることだと思う。即日まとめなければいけないもの、数日中のもの、数ヶ月後のもの、そのすべてが同じ情報、同じ取材(その大半は感想戦)に基づくもので果たして良いだろうか?僕はそうは思わない。

 時間がたつことで、対局者本人がその将棋に対する理解を深めることもあるし、注目のカードであれば多くの棋士が目を通すわけだから、棋士仲間のその将棋に対する評価も自然と定まってくるだろう。同じような将棋が流行するきっかけになることもあれば、逆に指されなくなることもある。わかりやすい例を挙げると、「最新流行形」とネット中継に書いてあるならいいが、これを数ヶ月過ぎた観戦記で使うのは無理がある場合が多いだろうと思う。
 対局中にはこのように考えてこう指した→感想戦で調べてみたところこう指すべきだと判明した→しかし改めて冷静になって一人で考えてみるとやっぱり納得がいかない、なんてことはざらにある。そうした心理の動きが書かれているものはなかなかお目にかかれない。僕が一番嫌いなのは「▲○○○では▲○○○が良かった」(感想戦の結論)の繰り返しである。報道記事としてはもちろんその事実も大切かもしれないが、事実であるという以上の価値(面白さ・将棋の魅力)は生まないと思うから。

 大雑把に言って、即時性が必要なものは、対局前・対局中そして対局直後に得られる情報に片寄らざるを得ないだろう。ネット中継というのはだいたいがそうだと思う。ならば、時間のたってから出る文章には、その逆、つまり時がたってからでなくては得られない情報が盛り込まれてしかるべきだと思う。そしてその上で、その書き手でなくては書けない「味」が出てくるのが理想だろうと思う。


 最後に改めて、この稿で一番言いたかったことは「即時性を自然と備えていた時代と同じやり方をしていてはだめだ」これに尽きます。その点がしっかり伝わっていればと願います。
 これまで観戦記の世界は、外部との接点でありながら、将棋界の中でも特に閉鎖的だったのではないか、と僕は感じています。それをすこしづつでも変えていくきっかけになれば、と思っています。
posted by daichan at 00:27| Comment(7) | TrackBack(3) | 意見・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月14日

コメントありがとうございます

いろいろ興味深く読ませていただきました。こちらにとっても皆様のご意見は勉強になるところ多く、感謝しております。
個別のレスは負担になるので、ここにまとめさせていただくことをご了承ください。もちろんすべて読ませていただいています。

テーマのリクエストは基本的に歓迎します。自分の中できちんとした見解がまとまっているものであれば、できるだけ本文にて取り上げたいと思っています。
ただ名人戦に関しては、少なくとも落ち着くまでは書くべきでないと思っています。いろいろ思うところもありますが、とりあえずはそういうことでご了解ください。

年が明けたら、「棋譜」についての考察を書こうと思っています。ひとことで言って、我々の団体の最重要コンテンツについて、棋士一人一人もっと真剣に考え、価値を生み出し高めていく工夫をしていくべきだと思っています。
posted by daichan at 12:42| Comment(3) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月07日

女流棋士独立について

この時期にブログを始めたのは全くの偶然だったのですが、このタイミングで大きなニュースが飛び込んできたことには、何か縁のようなものも感じます。この件に関して、僕の現時点までの見解をまとめておきます。

 
 「女流棋士」というものについて僕がある程度の知識を得たのは、たしか女流棋士発足30周年のパーティーが行われた前後だったと思う。いまから3年ほど前のことで、自分がちょうど四段になった頃のことでもある。やはり奨励会員ではわからないことも多かったのだと思う。
 このブログにたどりつくまでに、ほとんどの人が「正会員でない」という言葉を目にしたと思うが、このことの意味が自分がそうなるまではなかなかわからなかった。記事を目にした一般の方の多くは「それで結局、女流棋士というのはプロなの、そうでないの?」という疑問を抱いたと推測するが、まさに彼女たちはプロであってそうでないような、複雑な立ち位置なのである。このことが今回の最も大きな原因であって、定義があいまいなままでなければ、こんなことにはならなかっただろうと僕は思う。


 一般的に言って、女流棋士は弱い。これはプロアマ問わずある程度将棋を知っている人なら常識である。最近はアマが(男性)プロにちょくちょく勝つようになっているが、そういう強い「アマ」というのは実は一部の女流「プロ」よりはずいぶん強い。「このために」、女流棋士は肩書きはプロでありながら、内部では「プロ」としてみなされていないようなところがある。

 しかし、である。この「弱いから」という理屈は若干複雑な問題をはらんでいる。この理屈を将棋ファンが言うぶんにはかまわない。そういうお客さん、つまり女流は弱いから問題にしない、という将棋ファンは意外と多い。そのことを女流棋士たちは知るべきだし、そうしたファンを振り向かせたければ頑張って強くなるしかない。実際にそういう人たちが女流棋士より強いかどうかはともかく、そういうスタンスでプロと接するのはその人の自由であろうから。
 だが男性棋士(注1)が「弱いから」女流棋士たちをプロとはみなさない、というのは大きな間違いだろう。なぜなら、彼女たちを「女流棋士」(=プロ)として組織してきたのは男性棋士の側であるからだ。「プロと呼ぶには弱い」女性たちを「女流棋士」として遇してきたのは、将棋連盟を組織する男性棋士の側に他ならない。組織として見たときに、「日本将棋連盟」に属する男性棋士たちが、「女流棋士」たちをプロとして認めないのは、明らかに矛盾がある。そして、現在までの女流棋士の待遇というのは、プロと呼ぶにはあまりにも悪い。

 そうは言っても、これは組織としてみた場合の話であって、棋士個人となるとまたすこし話は違ってくる。言うまでもなく、男性棋士たちは皆一人の例外もなく、女流棋士たちよりはるかに苦しい修行時代を過ごし、厳しい競争を勝ち抜き、8割の人間が夢破れて去っていく中でプロの座を「勝ち取って」きた。繰り返し断言するが、これは絶対に一人の例外もない。簡単にプロになれてしまう女の世界とは違う、という感情が湧いてきても仕方がない。自分自身も、なぜ自分よりはるかに弱い人たちがプロなのか疑問を抱いたことはあった。それを通り越して、あんなのはプロとして認めない、という感情が出てくるのも大いに理解できる。ここに個人の感情と、組織の論理との決定的な違いがある。(注2)
 僕は現在、当然ながら女流棋士にはかなり好意的な立場の棋士だと思うが、心の中で女流をプロと認めていない男性棋士というのは、残念ながら極めて多いと思う。

 
 再び組織の話に戻るが、女流棋士の待遇が悪いということの一つに、「決定権がない」という言葉を目にした方が多いだろうと思う。棋戦の契約・育成会の運営などをはじめ、現在女流棋士会として活動するすべてのことは将棋連盟理事会に決定権限がある。このことが、僕が四段になるまではよく知らなかったことのひとつであり、彼女たちがプロでありながら、内部ではプロとして認められていないことの象徴であろうと思う。
 このことを考えるとき、僕の頭には「自治権」という言葉が浮かぶ。女流棋士たちにはこれまで、どんな些細なことであれ自治権は全く与えられていなかった。すこし大げさな言い方をすれば、(女流棋士会という)組織が力をつけてくれば、やがて自由を求める戦いへと発展するのは、歴史の必然だったのではないだろうか。
 

 それぞれの時代にはそれぞれの事情があっただろうし、いまから見てこうすべきだったということは必ずしも正しくないかもしれない。ただ、将棋連盟はもっと女流棋士に関心を持ち、将棋界の発展のために活用するすべを考えるべきであったということは言えると思う。強さという点が足りないならば、それを伸ばす方策(例えばプロ入りのハードルを高くするとか、何らかの方法でプロ入り後にも厳しい競争を課すとか)、あるいはそれを補う方策を考えるべきであった。また、もっといろいろな形で活用することで、待遇を改善するべきであった。例えば女は聞き手、男は解説といったい誰が決めたのか。女であるから解説ができないはずはないし(もちろん、強くないとできないということはあるが)、逆に男だからと言ってできるとも限らない。そういったことは権限のある、時の理事会の考えるべき仕事であったと僕は思う。


 ここで再び感情の話に戻る。あくまでも僕の推測だが、不幸なことにこの感情は「無関心」へと昇華されていくケースが多いようだ。一般的に、男性棋士の女流への関心は驚くほど低い。これがどういう原因によるものなのか僕にはまだよくわからないが、ここ2年あまりで女流棋士の問題が棋士会などで話し合われたことはほとんどなかったように思う。つい先日の棋士会も普段と変わらない人数で、名人戦問題の起きた4月と比べるとたぶん半分にも満たなかった。これでは現状を変えることは難しい。

 例えば女流棋士が、自分たちのことは自分たちで決められるように、将棋連盟の制度を変えることはそれほど難しくなかったように思える。連盟にとってそれほど不利益な話であるとは思えないからだ。だが現実には、多くの棋士が無関心でいる以上はそれさえも実現しない。そのことを知ったとき僕は、女流棋士は早く独立すべきだと思った。彼女たちの才能を生かし、活躍の場を広げるには、現状ではそれが最良の方法であると思った。


 将棋に関して、女であるがゆえにできないことはおそらく何もないだろう。棋力が低いがゆえにできないことはいくらかあるかもしれないが、全体から見ればそれもたかが知れているのではなかろうか。四段になることだけを目標にしていた頃には考えもしなかったことだが、いまは本心からそう思えるようになった。

 僕は今回の経緯についてはほとんど何も知らないし、応援できることも何もないが、彼女たちの成功を心から願っている。組織というものを動かしたり新たに作ったりする苦労は自分には全くわからないが、多くのファンの支えがあればきっとうまくいくことだろう。既存のファンも新しくこの世界を知った方も、これからもどうか温かく応援してほしいと思います。


 それにしても、今年は本当に「プロとは何なのか」と考えさせられる出来事が多かった。一般的に言って、女流棋士というのは男性に比べるとプロ意識が高いように思う。いろいろ理由はあるだろうが、そうでなくては生き残れなかったというのが大きいのではないかと思っている。「プロ意識」という部分に関して、きっと我々男性棋士が見習うべきことが多々あるのではないかと思う。プロ意識については将棋世界の最終回でも多少触れたので、それはまた稿を改めたい。

(2006年12月6日 記)


(注1)業界用語では「棋士」というと原則奨励会を抜けた四段以上のプロ(将棋連盟正会員)のみを指し、女流棋士や指導棋士は含みません。「女性の棋士はまだ誕生していない」というのはこういう意味です。この稿では分かりやすくするために、業界にはない「男性棋士」という言葉を使いました。
(注2)補足すると、奨励会員(外部)と棋士(正会員)の違いも大きい。奨励会時代に抱いた感情を、棋士になった(=組織の一員になった)とたん捨てろと言われても難しいのはお分かりいただけるだろう。
posted by daichan at 09:23| Comment(21) | TrackBack(5) | 意見・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月02日

ごあいさつ

以前から、プロとして自分の意見を発信する場所を持ちたいと常々思っていました。また、プロはそうあるべきだとも思っていました。
遅くなった要因はいろいろとありますが、たまたま将棋世界の連載を持たせていただいたことが大きかったと思います。軽いタッチで書いていましたが、いろいろと自分なりの考えを書かせていただいたことは、非常に有意義な経験でした。
連載をしていた1年ほどの間に、自分にも将棋界にも大きな出来事が相次ぎ、すっかり「毎日がオフタイム」などとは言ってられなくなりました。これからしばらくの間は、将棋に関わるいろいろなことに、挑戦し続けたいと思っています。
そのひとつとしてこの場所では、内部の視点からさまざまな将棋界の問題に、自分なりの意見・見解を書いていきたいと思います。連載当時より軽くなるのか重くなるのか、それは自分にもわかりませんが、将棋界を応援して下さるすべての人に、読んでもらいたいと思っています。
よろしくお願いします。
posted by daichan at 15:12| Comment(1) | TrackBack(1) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする