将棋界をこれまで支えてきたもの。その柱の一つが、新聞社というスポンサーであり、それぞれの新聞に掲載されてきた観戦記であろうと思う。新聞に将棋が掲載されることで、棋士たちはお金を得て、同時に将棋の普及にも役立ってきた。その観戦記が「インターネット」という新たなメディアの出現で変わろうとしている。また、変わっていくべきだと思う。
かつて新聞の観戦記というのは「即時性」を備えたものだったのではないかと想像する。昔のことはわからないのであくまでも推測だが、かつては新聞が将棋の詳しい内容を知るための、最速にしてほとんど唯一の手段であり続けたのではないだろうか。「将棋雑誌があるじゃないか」と言うなら、新聞を「出版物」と読み替えてもらってもよい。その状況がいま、インターネットの出現により、大きく変化している。
たとえば、いま渡辺竜王の将棋について詳しく知りたければ、見るべきものは週刊将棋でも将棋世界でもなく、渡辺明ブログであることは広く知られていると思う。本人の記事が最も信頼できる上に最も早いと来ている。この現実は実際に取材して記事を書く人にとっては厳しいが、その現実を乗り越えて、それでも読みたいと思わせるだけの物を書かないと読者はついてこない。一言で言うと、書き手のその人なりの個性を出していくしか方法はないと思う。
新聞の観戦記も同じことで、結果も、場合によっては内容もネット上で見ることのできる対局について、後発で類似の記事を出しても読者は評価してくれないだろう。満足させるには内容を良くするしかない。何が言いたいかというと、「即時性を自然と備えていた時代と同じやり方をしていてはだめだ」ということである。
現在の新聞観戦記というのは、だいたい対局から1ヶ月後ぐらいに掲載されるものが多いが、中には数日中に掲載されるものや、逆に3ヶ月ぐらいたってから掲載されるものもある。読者は一般に、掲載は早いほうがいいと思われるかもしれない。たとえば、遅くなるとこんな指摘もある→対局時期と掲載時期がかけ離れている物が結構多いので、掲載時期を忘れてしまうという事が多いのです。
しかし僕は必ずしも掲載時期が遅いことが悪いとは思わない。問題は、すべてが同じような取材方法、同じような書かれ方をされていることだと思う。即日まとめなければいけないもの、数日中のもの、数ヶ月後のもの、そのすべてが同じ情報、同じ取材(その大半は感想戦)に基づくもので果たして良いだろうか?僕はそうは思わない。
時間がたつことで、対局者本人がその将棋に対する理解を深めることもあるし、注目のカードであれば多くの棋士が目を通すわけだから、棋士仲間のその将棋に対する評価も自然と定まってくるだろう。同じような将棋が流行するきっかけになることもあれば、逆に指されなくなることもある。わかりやすい例を挙げると、「最新流行形」とネット中継に書いてあるならいいが、これを数ヶ月過ぎた観戦記で使うのは無理がある場合が多いだろうと思う。
対局中にはこのように考えてこう指した→感想戦で調べてみたところこう指すべきだと判明した→しかし改めて冷静になって一人で考えてみるとやっぱり納得がいかない、なんてことはざらにある。そうした心理の動きが書かれているものはなかなかお目にかかれない。僕が一番嫌いなのは「▲○○○では▲○○○が良かった」(感想戦の結論)の繰り返しである。報道記事としてはもちろんその事実も大切かもしれないが、事実であるという以上の価値(面白さ・将棋の魅力)は生まないと思うから。
大雑把に言って、即時性が必要なものは、対局前・対局中そして対局直後に得られる情報に片寄らざるを得ないだろう。ネット中継というのはだいたいがそうだと思う。ならば、時間のたってから出る文章には、その逆、つまり時がたってからでなくては得られない情報が盛り込まれてしかるべきだと思う。そしてその上で、その書き手でなくては書けない「味」が出てくるのが理想だろうと思う。
最後に改めて、この稿で一番言いたかったことは「即時性を自然と備えていた時代と同じやり方をしていてはだめだ」これに尽きます。その点がしっかり伝わっていればと願います。
これまで観戦記の世界は、外部との接点でありながら、将棋界の中でも特に閉鎖的だったのではないか、と僕は感じています。それをすこしづつでも変えていくきっかけになれば、と思っています。
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